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2007年 10月 21日
忙しい日がつづいていて、ずーっとMacで遊べなかった。だもんでいろいろと忘れている。
あれこれ試しながらでないと、OSのインストールもうまくできない。 Mac OS 9で起動できるMDDを使っているわけだが、いつのまにか内蔵HDでOS 9起動ができなくなっている。なぜ? まぁその必要性はほとんどないので放置。 現在FWの外付けHDに各種OSをインストールしているところ。複数のパーテーションに切って、OS 9で起動できるようにするには、「Mac OS拡張」で大文字小文字の区別も、ジャーナリングなしでなければいけないんだっけ? 覚えてない。おまけに、先頭のパーテーションにOS 9入れても起動しないから、後ろの方のパーテーションにシステムをいれてみました。 いろいろと忘れている。うーん。めんどいなぁ #
by dodaro
| 2007-10-21 02:46
2006年 11月 26日
既刊の16巻まで読んだ。とてもセンシティブなところがあり面白い。大ヒット作だというが、このマンガのファンが多いと思うと、日本もまだ捨てたものではないと思ったりした。
続きが読みたい! #
by dodaro
| 2006-11-26 02:47
2006年 11月 08日
先日「ウィリアム・ジョーンズを読みかえてみる」という記事を書いたが、まったくダメである。あれでは第1巻でのウィリアムと同程度の認識でしかない。社交の招待をおざなりにしていたウィリアムが、リチャードに諭される場面だ(p.167)。
「爵位も持たず商家でもあるジョーンズ家がジェントリに名を連ねられるのはなぜだと思う?」と問われて、「財産ですか」とウィリアムは答える。この返事と同様に私の認識は浅はかだ。対してリチャードは「それもある。だが、より大切な要素がある。すなわち品格と知性と礼儀だ」と言う。 ウィリアムはこれから社交界を、伴侶とともにわたっていくことができるのだろうか。もっともそれは、転地療養ということにして妻を里帰りさせたリチャードにはできなかったことだ。伴侶を連れていないことのハンデを、リチャードはよく知っていたに違いない。 ウィリアムを、エマを幸せにできる人物として読みかえるのは、正直なところ自信がない。だが、エマが幸せになる可能性はある。 エマは第7巻で自分から行動を起こす。ドロテアに「お願いしたいことがございます」と切り出す(p.100)。「奥様のようになるにはどうすればよいのか、教えて頂けないでしょうか」と頼むのがそれだ。 私は「エマは主に耐えていく。耐えて待った先に幸福がある」と10月22日の記事に書いたが、これは妥当な評価ではなかった。物語の終盤で、エマは受身の存在から変わっていたのだ。 エマを支えているのは、ケリーの教育によって花売り娘からメイドに変われたことだ。独りアメリカにいたときも、ケリーの教育がエマを支えた。きっとこれからも、ことあるごとにケリーが支えとなって、エマは幸せへと向かっていく。そう期待している。 #
by dodaro
| 2006-11-08 02:30
2006年 11月 03日
『エマ』はマンガ喫茶で読んだというのに再読したくなり、古本屋で次々と買ってしまった。改めて読んでみても、ウィリアム・ジョーンズのへたれぶりに納得がいかない。素直に読んだ感想は、あれではエマは社交界に受け入れられず、さらにはジョーンズ家の没落も間違いないといったところだ。
しかしそれは私には不満である。エマには是非とも幸せになってもらいたい。 そこで、ウィリアム・ジョーンズを読みかえてみる。彼はエマを幸せにすることができる人間なのだという前提で、読み直してみる。以下の記述はネタバレを含むことを断っておく。 -------------------------------------- 「前はもっと適当で面倒臭がりでボーッとしてて優柔不断で自信なさそうで――」と妹のグレイスに言われるウィリアムであったが(第3巻 p.56)、さまざまな出来事のあとでは、父親のリチャードに向かって「失った信用は今後の行動で取り返すよりほかにないと思っています」と毅然とした態度で言うほどに成長している(第6巻 p.160)。 そのリチャードは「ウィリアムにはこのまま名を継がせて自分で責任を取らせる」と言う(第7巻 p.212)。その実現可能性がないと感じていたならば、実際的な事業家であるリチャードは、このセリフを言わないだろう。では、どこにその可能性があるのか。 ジョーンズ家は貴族ではなくジェントリである。その財政的な基盤は貿易などの事業による。描写は少ないがウィリアムもまた仕事をする身であり、まじめに仕事をするときは「まあ多少は使えるようになった訳だな」とリチャードが評する程度には有能なようだ(第3巻 p.63)。 ウィキペディアの産業革命の項目には「19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス経済は貿易収支が赤字であった」とある。この辺りの事情に私はうといのだが、おそらくは輸入増大の背景には、中産階級・労働者階級の発展があるのだろう。 リチャードが3代目という「成り上がり」のジョーンズ家の事業は、中産階級・労働者階級の発展と結びつけて考えるべきだろう。また、経済動向を把握していなければ貿易の仕事はおぼつかない。上流階級の衰退と中産階級・労働者階級の発展を、ジョーンズ父子が肌身に感じていたとしても不思議ではない。 事業家ウィリアム成功の目はここにある。彼が取り組む、おそらくは中産階級・労働者階級を対象とする事業は、今後もさらに大きく発展していくのだろう。上流階級でのキャンベル家との軋轢も、これに影響なしとは言えないものの、甚大なものではないだろう。 事業家ウィリアムがマンガに描かれていないのは、エマの物語とは異なる世界の事柄だからだ。 もともとウィリアムは社交界を楽しんではいなかった。それは母親であるオーレリアを、社交界が「追い出した」のを子供時代に見ていたことによるのかもしれない。そんなウィリアムは、おそらく今後は社交界での交流を、必要最小限にとどめるに違いない。それはメイド出身の妻エマへの配慮でもある。 有能な事業家ウィリアムを夢想しさえすれば、幸せなエマの将来を想像できるだろう。 ------------------ ちなみにエレノアは、破談になったのは、むしろ幸運なのだと考えたほうがよい。これから、さまざまな恋愛を数多くしたほうが、初恋で結ばれるよりもずっといい。私はそう思う。 #
by dodaro
| 2006-11-03 02:06
2006年 10月 22日
19世紀末のイギリスを舞台に、メイドのエマと上流階級(貴族ではなく貿易商?)のウィリアム・ジョーンズの階層をまたいだ恋愛を描いたマンガで、全7巻。既に完結している。一読したときの記憶と印象なので、不適切かもしれないが書いておく。
主人公のエマは、口数の少ない知的な美人。愛嬌はあまりなく、朴訥とした印象もあるが、魅力的だ。感情を抑圧している様子がよく描かれている。 マンガの見せ所は、抑えていたエマの感情が解き放たれるところ。山場へいたる過程は、抑えつけている感情の圧力を徐々に高めていくエピソードの積み重ねだ。その描き方がよいので、山場がとても感動的になる。個性的な登場人物も多く、とても面白い。マンガ喫茶で一気読みしてしまった。 エマとウィリアムの恋愛には、多くの障害がある。その障害をどのように越えるかが物語になるのが道理だが、このマンガはエマが障害を克服していく物語ではない。エマは主に耐えていく。耐えて待った先に幸福がある。そこはとても古風であるが、読者として不満はない(ウィリアムが優柔不断であまり魅力的に感じられない点は不満だが)。 『エマ』は完結したが、番外編を連載中とのこと。単行本になるのが待ち遠しい。 #
by dodaro
| 2006-10-22 23:25
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